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マハーラシュトラの歴史

初期
いくつかの石器時代の遺跡が発見されているが、事実上マハーラシュトラが歴史に登場するのは始めの仏教石窟が掘られた紀元前2世紀からとされている。
自然の美の中に安らぎを求めて掘られ、現在もその形がほとんど変わらず残る石窟群は、しかし当時南北インドを結んでいたキャラバン貿易から産出された富なくしてはありえなかっただろう。


起源
7世紀の碑文と、当時の中国人旅行者の日誌にマハーラシュトラの名前が初めて登場する。
おそらくマラティ語で馬の御者を意味する「rathi」、すなわち「戦闘軍」が由来であろう。
紀元90年、Vedishri王が王国の首都を現在のプネから56kmの地Junnarに定めた頃からこの地方が頭角を著わしはじめた。
ところが14世紀初めまでの900年間、北方のムスリム支配から追い出されたDevgiri Yadavの存在以外に、この地方に関する歴史は明らかになっていない。
1526年、ムガル王1世Babarが大規模な王朝をデリーに築き、瞬く間にムガル支配が南に広がっていった。
ムガル帝国は18世紀初頭までインドを支配した。


マラータ時代
16世紀になると、NizamshahiAdilshahiQutubshahiといった、ムガル王朝に仕えていながらそれぞれ自治を持ったイスラム勢力がデカン地方に次々砦を建設した。
そのうちの一つ、Nizamshahiはプネから東に約95マイル(約153km)のところに位置するアーメドナガル(Ahmednagar)付近に拠点を置いた。

そんなムガル支配下のマハーラシュトラにおいて、マラータ勢力が頭角を著わしはじめたのは1595年、後のマラータ宰相シヴァージの祖父にあたり、Nizam朝で仕えていたMaloji Bhosleが、ムガルとの勇敢な戦いぶりから「ラージャ」の称号を与えられ、領土としてプネとその近郊チャカン(Chakan)の砦を与えられた頃からとされる。


シヴァージの時代(1627−1680)
マラータ帝国を建国したシヴァージ・ビョースレShivaji Bhosle....のちのチャットラパティ・シヴァージ・マハラージ)は1629年、プネから40マイル(約64km)北にあるShivneri砦で生まれた。
シヴァージの父Shahajiは、Manojiから受け継いだプネおよびチャカン地域を統括していたが、シヴァージが生まれた年、それらの領土をNzamshahiから引き離し、独立させた。

1635年、Nizam朝の軍隊がプネへの報復攻撃を開始、Shahajiは捕虜となりその領土は取り上げられてしまう。
まもなくShahajiはDadaji Kondadevにプネと、プネから約400マイル(644km)南にあったヴィジャプールのAdilshahi朝に仕えることになった息子シヴァージの相談役を任せる。
のちにこのAdilshahi朝は重要な意味を持つ。

Dadojiはシヴァージと彼の母親Jijabaiのためにプネにラール・マハルを建設。
この頃からシヴァージはマラータの独立について友人たちを説得しはじめ、16歳のとき、自らの住む土地を解放する宣言をする。

それから、彼の一生を懸けたムガル、およびムスリム権力に対抗する戦いが始まった。
1647年、シヴァージは2つの砦とプネの奪還に成功。
10年後の1657年にはアーメドナガルにおいて数々の戦利品の略奪、かつての居城Adilshahi朝に対する反抗、攻撃を開始した。
それから徐々にこの地域にあったPurandar、Rajgad、Tornaといった砦の占拠をしていった。

Adilshahiは著名なSardar(リーダー)として知られたAfzalkhan(Khan)率いる強力な軍隊を派遣するが、実のところ較べものにならないほど小規模な軍を持っていたシヴァージは、「とんち」を使ってプネから100マイル(160km)ほどのところにある森林地帯にKhan軍を誘導、見事撃退した。
この戦いの後、シヴァージ軍は追い風に乗り、コーラプル(Kolhapur)近郊のPenhalamまで達した。

その頃、アウラングゼーブ(Aurangzeb)皇帝はシヴァージの力を重く見て、もはや地元のムスリム権力では彼に対抗することはできないと気づいた。
そこで1666年、将軍Mirzaraje Jaisingh(Mirza)率いる膨大な軍隊をシヴァージ軍掃討のために派遣し、まもなくさすがのシヴァージも、重要な砦の大部分を失ってしまう。

負け戦に気づいたシヴァージは、アウラングゼーブ帝に仕える趣旨の条約にサインし、Mirzaとともにデリーへ向かい皇帝に謁見する。
シヴァージを見たアウラングゼーブは人道的にもてなし、しばらくの間住まいにかくまったという。
そのままアウラングゼーブによって殺されるかのように見えたが、シヴァージは息子Sambhajiと共に脱走し、南へ逃げた。

その後のシヴァージは、少しずつ失われた栄光を取り戻しにかかり、1673年までには西マハーラシュトラのほぼ全域を支配下におさめ、Raigad(プネから約241km)を占拠した。

1673年、シヴァージは正式に最高君主としての地位に着き、築いたマラータ王国には優れた政府と強力な軍隊を置いた。
彼が亡くなる1680年にはデッカン全域が彼の支配下となり、彼はまたマラータの人々の民族としての誇りと独立精神を励まし、王国150年間でもっとも偉大な王として民衆の心に深く残りつづけた。


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